Last update:2022,Aug,20

世界大戦と平和への試み

バルカン戦争 (Balkan Wars)

あらすじ

big5
「今回のテーマは1912-1913年に二度にわたって勃発したバルカン戦争(Balkan Wars)です。バルカン戦争は、これだけでも一つの歴史イベントとして重要ですが、バルカン戦争の直後に第一次世界大戦が始まりますので、第一次世界大戦の前哨戦ともいえる戦争ですね。」
名もなきOL
「バルカン半島って、私にはあんまり馴染みないんですよね。ギリシャなら、古代史からあるからわかりますけど、それ以外の国とかは、どこに何があるのかもうろ覚えです。」
big5
「そう感じる日本人は多いでしょうね。日本との直接的な関係が薄いので、仕方ないと思います。なので、バルカン半島情勢を学ぶときは、常に地図を見ながら確認する、という地味な作業が効果的ですよ。
さて、いつもどおりまずはあらすじから。1908年の青年トルコ革命で、オスマン帝国は立憲君主制に移行したものの、革命の混乱のスキを突かれて周辺諸国に領土を奪われていきました。バルカン半島においては、長い間オスマン帝国に支配されていたスラヴ人国家(セルビア、ブルガリア、ルーマニアなど)を中心にバルカン同盟が結成され、ロシアの支援を受けてオスマン帝国に戦争を挑んで勝利しました(第一次バルカン戦争)。しかし、オスマン帝国から奪い取った領土の取り合いでバルカン同盟が仲間割れを起こし、特に不満が大きかったブルガリアがセルビアとギリシアに攻め込んで第二次バルカン戦争が始まりました。しかし、ブルガリアに味方する国は無く孤立してしまい、ブルガリアは敗北。しかし、どの国も領土問題で不満を残すこととなり、状況は緊迫したままでした。この緊迫感はバルカン問題と呼ばれ、「ヨーロッパの火薬庫」というあだ名をつけられることになります。そして、この火薬庫に引火してしまい、1914年から第一次世界大戦に突入することになるわけです。
と、あらすじはこれくらいにしておいて、本編に入りましょうか。まずは、いつもどおり年表から見ていきましょう。」

年月 バルカン半島のイベント 世界のイベント
1878年 露土戦争後のベルリン条約で、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアがオスマン帝国から独立し、ブルガリアは自治公国となる
1908年 ブルガリア独立 青年トルコ革命
1911年 辛亥革命
1912年 バルカン同盟がオスマン帝国に宣戦布告
第一次バルカン戦争 開戦
1913年5月 ロンドン条約締結 第一次バルカン戦争 終結
1913年6月 ブルガリアがセルビア・ギリシアに侵攻
第二次バルカン戦争 開戦
1913年8月 ブカレスト条約締結 第二次バルカン戦争 終結

第一次バルカン戦争

big5
「まずは、『世界の歴史まっぷ』さん作成のこの図を見てみましょう。まずは、上の「第1次バルカン戦争」です。」


big5
「第一次バルカン戦争の構図は、オスマン帝国 vs バルカン同盟(ブルガリア、セルビア、モンテネグロ、ギリシア)となっているところがポイントです。青年トルコ革命で混乱しているオスマン帝国のスキに付け込む形で、バルカン同盟諸国がオスマン帝国に戦争を仕掛けたのが第一次バルカン戦争の基本構図です。」
名もなきOL
「スキを見せた時に周辺国に攻撃されるって、戦国時代みたいですね。」
big5
「そうですね。帝国主義時代は、戦国時代みたいなものですね。弱肉強食、強い者が正義です。ただ、もう一つ重要な要素があります。それは、ロシアをリーダーとするパン=スラヴ主義とオーストリアをリーダーとするパン=ゲルマン主義、という対立構造です。バルカン同盟の国は、ギリシア以外はロシアと同じスラヴ系民族の国です。ロシアは、これらスラヴ民族諸国を支援することで、バルカン半島におけるロシアの影響力を高めようとしていたわけです。」
名もなきOL
「ロシアの南下政策ですね。」
big5
「このようなロシアの動きに対抗するのが、オーストリアが進めるパン=ゲルマン主義です。ボスニア・ヘルツェゴヴィナのように、オーストリアもバルカン半島に勢力を伸ばそうとしていました。そんなオーストリアにとって、スラヴ人国家は敵対勢力になるわけですね。というわけで、第一次バルカン戦争ではオーストリアはオスマン帝国を支援しているわけですね。」
名もなきOL
「なるほど。ロシアとオーストリアという、大国の意図が入り込んでるわけですね。」
big5
「第一次バルカン戦争の結果は、オスマン帝国の敗北となりました。講和条約として、1913年5月にロンドン条約が締結されます。オスマン帝国はイスタンブルを除くヨーロッパ側のすべての領土を喪失し、エーゲ海南方のクレタ島も失いました。また、バルカン諸国として新たにアルバニアが独立しています。
ただ、オスマン帝国から奪った領土のうち、マケドニア方面をどう分割するかでブルガリア・セルビア・ギリシアが揉めます。3国は妥協してマケドニアを3分割したのですが、それだけでは収まりませんでした。」

第二次バルカン戦争

big5
「第二次バルカン戦争は、ロンドン条約が締結された翌月、1913年6月に始まりました。これはつまり、ブルガリアは講和してすぐにセルビア・ギリシアに攻め込むつもりだったであろう、ということですね。上の『世界の歴史まっぷ』さん作成の図を見てましょう。第二次バルカン戦争の基本的な対立はブルガリア vs セルビア・ギリシア・モンテネグロ、となっていますね。」
名もなきOL
「さっきまでは、オスマン帝国を共通の敵として戦っていた仲間同士が戦っているんですね。まさに「昨日の友は今日の敵」。戦国時代ですね。」
big5
「第二次バルカン戦争は、スラヴ民族国家同士の争いになっているので、状況は複雑になっています。基本的には、ロシアが支援するパン=スラヴ主義チームはブルガリアが抜けただけで、第一次バルカン戦争と同じですが、抜けたブルガリアはオスマン帝国やルーマニアなど、周辺諸国とも戦うことになってしまいました。そして、パン=ゲルマン主義のオーストリアは、ゲルマン民族ではない、スラヴ民族国家であるはずのブルガリアを支援しているわけですね。
このように関係性が変わったのは、ブルガリアの領土拡大の野心が原因になっています。ロシアは、ブルガリアをあくまで「バルカン半島における子分」のように見ていたのですが、ブルガリアはいつまでもロシアの子分でいる気はなかったわけですね。こうして、パン=スラヴ主義に明確にヒビが入り、バルカン半島情勢はますます複雑になってしまいました。
なお、第二次ブルガリア戦争は2か月後の1913年8月にブカレスト条約で講和となり、マケドニアにおけるブルガリア領は、セルビアとギリシアに奪われることとなりました。しかし、3国ともこれで納得というわけにはいきません。ブルガリアは戦争で領土を失っているので、取り返す気満々です。セルビアとギリシアも、マケドニア方面の領土で揉めているので、決して仲がいいわけではありません。それに、そもそもマケドニア方面にはマケドニア人が住んでいるわけで、彼らから見れば3国とも外国勢力でした。」
名もなきOL
「本当に、バルカン半島情勢は混沌としてきましたね。「ヨーロッパの火薬庫」と言われるのもわかります。」
big5
「そうなんですよ。そして、この複雑なバルカン半島情勢に、列強の利害関係が絡むともっと複雑になります。こうして、第一次世界大戦の布石は整ったわけです。
と、言ったところで今回はここまで。
ここまでご清聴ありがとうございました。またの機会を楽しみにしています。」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」


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